お笑いのとらえ方において“シュール”という考え方がある。
人はどういうお笑いに遭遇したとき“シュール”と感じるのだろうか?
お笑いの構造を解くと、様々な技術が合わさっていることがわかる。
例えば“てんどん”。
同じフレーズを繰り返し使うときなどがそうである。
古くは、明石家さんまが「ジミーちゃんやってる?」と言うと、ジミー大西が「やってるやってる」と答える。
そこに少しのおかしみがある。
あるいは”ひっくり返し”。
「泉谷しげる」を「泉谷しるげ」と表現する事によって、ひとつの笑いが生まれる。
あるいは”取り違え”。
「ドンキホーテ」を「びっくりドンキー」と、取り違えることでもまたひとつの笑いが生まれる。
あるいは”移調、パロディ”はどうであろうか?
この移調、パロディは、日本においては80年代に流行し、定着することとなった。
古いかもしれないが「俺たちひょうきん族」にてビートたけしが扮する「タケちゃんマン」は「スーパーマン」のパロディであり、昔懐かしの「とんねるずのみなさんのおかげです」で木梨憲武が扮する「仮面ノリダー」は、言うまでもなく「仮面ライダー」のパロディである。
これらにものまね四天王(コロッケ、清水アキラ、ビジーフォー、栗田貫一)も加わり、80年代における日本は間違いなく、移調、パロディの笑いが定着した時代だったといえる。
このように私たちはひとつの笑いの現象に遭遇した時、無意識に構造を解し、ある種のパターンにあてはめて理解し、共感するのではないだろうか?
筆者は、80年代から10年に及んで流行した移調、パロディに長く触れたため、すっかりこの手の笑いが習慣化してしまったのである。
それから90年代に入った時、筆者自身が持っていた笑いの構造が覆されることになる。
今は解散したジャリズムの「サボイの銀行強盗」というコントをテレビで見た時である。
一人の外国人があるピストルを片手に銀行へと強盗に入る。
そしてポケットからおもむろに紙を取り出しこういうのである「僕の名前はサボイです。銀行強盗です。手をあげろ!あげると撃つぞ!」当然店員はとまどってしまう。
手をあげなくては打たれるし、手をあげても同様に打たれてしまうからである。
ここにひとつ、”ダブルバインド(矛盾した指示)”が生じる。
筆者はこのコントを初めて見たとき、理屈をこえて笑ってしまったのである。
そしてこの笑いは斬新だ!シュールだ!と思ってしまったのである。
なぜなら前述したそれまで自分が持っていたどの笑いのパターンにも属さなかったからである。
そして今日、この”ダブルバインド”による笑いは、キングオブコント2015年のロッチの「試着室」(店員が客にいくら試着を教えても、うまくいかず、客はその店員の意向を理解できないのである)や、
キングオブコント2020年チャンピオンのジャルジャルの「理解不能者」(野球部の新入部員に先輩がバッドスウィングを教えようとするのだがうまくいかず、最後はバッドの持ち方すら覚えられなくて終わるという)がある。
今日の笑いの世界ではすでにみんな知っている技術となっている。
もちろん現在の笑いの構造は、”ダブルバインド”やその他上述の技術だけで説明できるほど単純でない。
現在の笑いの構造はそれこそ無数にあるだろう。
結論
筆者が思う、笑いにおけるシュール、あるいは斬新さは、人々が自分達の経験やメディア等で取得したことのない事象に遭遇した時、初めて感じることではないだろうか?
筆者は今後自分が笑いを見るにあたって、“シュール”だと思える感覚を大事にして行きたいと考えている。
[ダブルバインド – Wikipedia]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89
コメント